「ル」か「メ」
電車という箱の中に無数に点在する物語
読書感想文。
品田遊『止まりだしたら走らない』を読んだ。
品田遊、というと聞いたことがない方も多いかもしれないが、Twitterでは"ダ・ヴィンチ・恐山"という名前で活動している人物だ。詳しくは以下のTwitterアカウントページを見て頂きたい。
ダ・ヴィンチ・恐山(品田遊) (@d_v_osorezan) | Twitter
Webライターとしてのダ・ヴィンチ・恐山の書く文章が好きだったので、小説家としての品田遊が書く小説を読んでみようと思い、今回『止まりだしたら走らない』を読んだ。
結論から言うと、とても好きだった。
どういうところが、ということを、ネタバレとならないよう気を付けながら書いていこうと思う。
まず、この本の概要について。amazonの紹介文から引用する。
都心から武蔵野の台地を横切り東京を横断する中央線車内を舞台に、
さまざまなヒトたちの個人的な問題をあぶり出す連作短編集。
現代人の共感を呼ぶ、あの人の、私の、誰かの、車内事情。
舞台は東京、中央線である。
短編集とは言いつつ、柱として東京駅から高尾山に向かう2人の物語がある。武蔵小金井の高校の自然科学部に所属する都築後輩と新渡戸先輩の2人の物語である。
都築後輩の目線で語られる中央線車内(時に車外)の連作と、他の登場人物の短編が交互に描かれているのがこの『止まりだしたら走らない』という本である。
この本では、それぞれの登場人物の内部に流れる物語がそのまま描かれている。
「内向しすぎて破壊的」というフレーズで紹介されているが、まさしくその通りで、その意味は読んでみないとわからない。
会社員、オタク、露出狂、嘘吐き、外国人、女子高生、女子中学生、教員、駅員……それぞれの内部が描かれる。
改札口、盗撮、知恵袋、今日の出来事、今日の夕飯、昔の出来事、恋心……あらゆることが描かれる。
中央線に乗車する人々の内部が描かれる。
それらの物語は時に交差し、時に全く交差しない。
しかし、確かにひとつひとつの物語はひとつひとつの物語として存在している。
その心地よさと驚きを感じることができる。
「面白い」というより、心地よさと驚きの方が大きかった。
非常に良い本だった。
あと、イラストがerror403さんなのでそこもとても良いです。
2nd_error403 (@2nd_error403) | Twitter
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何を言っているのかわからない感想(+α)
それぞれの人の物語が交差するという点では似ている部分があるとはいえる。
しかし、完全に『阪急電車』とは違う点がある。
作者が違う、ということである。
当たり前だ、と思われるかもしれない。私もそう思う。
この本『止まりだしたら走らない』は、品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)だからこそ書ける本である。
この本のすごいところは、
登場人物が全員ダ・ヴィンチ・恐山であるということだ。
それでいて、登場人物が全員違う自我を持っている。
登場人物が全員ダ・ヴィンチ・恐山というと語弊があるかもしれない。
さらに正確に言おうとするなら、登場人物ひとりひとりからダ・ヴィンチ・恐山の視野を感じることができるということだ。
これも、ダ・ヴィンチ・恐山が書いているのだから当然と言われるかもしれない。
私もそう思う。
だが、この本を読むとさらにそう思わざるを得ないのである。
何を言っているかわからない、と思う方はとりあえず読んでほしい。
恐らく、少しは共感していただけることだろう。
とにかく、本当にオススメの小説である。
電車に乗るということ
それは目的地があるということだ。
と、思う。
電車に乗っている一人ひとりがある目的地を目指している。目的地に向かうために電車に乗っているのである。
たとえ目的地を持たずにふらりと電車に乗り込む人がいたとして、その人もどこかの駅で降りることになる。これは後付け的にはなるが「目的地」と呼ぶことができるだろう。
誰かの通過点は誰かの目的地である。
また、誰かの出発点が誰かの目的地であり得る。
これらのことは当然のことではある。当然のことである余り普段そんなことは意識しない。
そしてその駅を目的地としている人にとっても、その駅は通過点でしかない。
駅で降り、改札を抜け、足取りを進めることによってのみ目的地へ向かうことができるのだから。
すべての駅は誰かの目的地である。
それと同時に、そこに辿りついた全ての人々にとっての通過点である。
当たり前のことだけれど、電車というものについて考えるまで気付くことが無かった。
という話。
これまでの人生で一度も許したことがないものについて
【注意】今回、かなり私個人の怒りをぶつける記事になっています。
もしかすると気を悪くする方がいらっしゃるかもしれませんが、ご了承ください。
「ダジャレを言うのは誰じゃ?」
というダジャレをこれまで許せたことがない。
美しくないからである。
まずこのダジャレの美しくない点を2つ指摘しよう。
1.「ダジャレ」と「だれじゃ」ではかかっているのか微妙すぎる
最大の欠点である。そもそもこれはダジャレなのか?という疑問がある。
Wikipediaによると、ダジャレとは次のようなものである。
駄洒落(だじゃれ)とは、同じ或いは非常に似通った音を持つ言葉をかけて遊ぶ一種の言葉遊び。
「ダジャレを言うのは誰じゃ」という文言を仮にダジャレとするならば、これは「非常に似通った音を持つ言葉」をかけているということになるのだろう。
しかし、ここで注意しなければならないのが母音である。
「ダジャレ」の母音は「ああえ」であり、「誰じゃ」の母音は「あえあ」なのである。
ここがこのダジャレの美しくないところで、 「だ」「じゃ」「れ」の3つのパーツを使っていることは共通しているものの、母音が違うため全くダジャレ感が無いのである。
「だ」「じゃ」「れ」の3文字が共通していればダジャレになるだろうという、安易な思考の産物なのである。実に美しくない。
母音が違うという事実はかなり大きく、例えば「ダジャレを言うのは誰じゃ」よりは「ダジャレをいうのはサザエ」の方がダジャレ感があるだろう。と思ったけどそんなことなかったね。
ともかく、ダジャレに成り得ないワードを用いてアナグラム的に組み替え、それを無理矢理組み合わせたのが「ダジャレを言うのは誰じゃ?」という文言なのである。
2.無理矢理ダジャレにしようとする奴がいる
この事実には、私はかなり憤りを覚えている。
例えば、「ダジャレを言うのはだ(じゃ)れじゃ?」などという輩がこの日本に存在している。
「(じゃ)」ってなんだよ。「(じゃ)」じゃねえよ。
そもそも元のダジャレが美しくない上に、さらに加筆を加えて醜さを増進させる行い、まさに外道である。完全に道を外れている。
「2」の下に「ノ」をつけて無理に「3」にしようとする小学生と同程度の発想である。実に醜い。
もう一つある。「ダジャレを言うのはだじゃれ?」という文言である。
もはや意味不明である。日本語で話せ。
私が初めてこの文言に出会ったのは、アニメ「かいけつゾロリ」にあった毎週ダジャレをいうコーナー(あとで調べたところ、「どっきりびっくりおやじギャグコーナー」という名前だった)である。当時私は小学校低学年であったが、幼心に「いい加減にしてくれ」と思った記憶がある。
ここまで私の怒りを思うままに書いてきた。
ここまでインターネット上に怒りを表明したのは初めてだったため、不快な文章になっていないか心配な部分もあるが、この感情は事実であるため仕方がない。
比べて、私が最も美しいと考えるダジャレは
「アルミ缶の上にあるみかん」
である。
私が初めてこのダジャレに出会ったとき感動の涙を流したことを克明に記憶している。あれは運命の出会いだった。
このダジャレ、簡潔性と現実性という要素を完全に満たしている。
アルミ缶の上にあるみかん、つまり「みかん on the アルミ缶」である。何と簡潔であることだろうか。
この世界には「みかん」と「アルミ缶」しか存在しない。
この短文だけでその情景がありありと想像される。
あまりに美しい。
皆様におかれましても、人生の中で「美しさ」を追い求めてよりよいダジャレ・ライフを送って頂きたく思う。
それでは。
さよおなら。
「アツはナツいねえ」と最初に言った奴wwwwwwwwww
日本語学び直した方がいい。
【考察】ポケモンバトルが平然と行われている理由
こんにちは。
今回めちゃくちゃ真面目な話をします。
ポケモンバトルって、めちゃくちゃひどくないですか?
こないだポケモンをしていて、(詳細にはポケモンブラック2で殿堂入り後にシロナと戦っているときに)ふと自分のパーティーを見ると「ひんし」で赤く染まったポケモンたちの姿がありました。
そのとき思ったのです。「なんでこんなひどいことするの?」と。
ポケモンが「バトルしてえ~」と言っているのを聞いたことがありますか?少なくとも私はありません。
草むらから飛び出してきたポケモンとバトルになることもありますが、それはおそらくポケモンのすみかに立ち入った人間に驚いて、自己の生活の保護のために襲ってくるのでしょう。
ポケモントレーナー同士の自己満足のために、なんなら時には金儲けのために、何の罪もないポケモンたちを傷つけ合わせる。それがポケモンバトルです。
鬼畜の図。
なぜ人はポケモンバトルをするのか?
これは人類が目を背け続けている、「ポケモン」という世界における至上の命題なのです。
結論から言うと、この問題の原因はポケモンセンターにあります。
原因、というと語弊があります。この問題はそこまで単純なものなのではなく、より構造的な問題なのです。
順を追って解説しましょう。
これについて理解をしていただくためには、まず私が提言し続けている「ポケモンセンター公共事業説」について知っていただきたいと思います。
◆ポケモンセンター公共事業説とは(※完全に私の持論です。)
ポケモンセンターは公共事業である、つまり、政府によって運営されている施設であるという説です。
ポケモンセンターが無料で無限に使えることを疑問に思ったことはありませんか?これは、ポケモンセンターの運営が税金で賄われているからなのです。
ポケモンの治療費はもちろん、ジョーイさんの給与、ハピナスの餌食事代も税金で賄われています。奴ら全員公務員なのです。
そして、その税源は「ポケモンバトルによって発生する賞金」にあると思われます。
なぜなら、ポケモンバトルによってポケモンは傷つけられ、その傷を治療するのがポケモンセンターだからです。
つまり、こう考えることが一番筋が通っているのです。もしこれが正しければ、税源と用途が「ポケモントレーナ―」にあるので、税金としてかなり合理的なものであると考えられます。
しかし、そうなるとこの税金には一つだけ「穴」があります。
それは、手持ちのポケモンはポケモントレーナ―とのバトルだけではなく、野生のポケモンとのバトルにおいても傷つくということです。
ですが、私はこの「穴」こそがポケモンバトルをするそもそもの要因になっていると思うのです。
要するに、ポケモンはポケモントレーナ―による恣意的なバトルにおいてのみ傷つくのではなく、そもそも、生活するうえで(もしくは捕獲するために)自然に発生してしまう野生のポケモンとのバトルでも傷ついてしまうのです。
ポケモンは相手を瀕死にするまで殴り続けてしまう哀しい生き物なので、野生のポケモンとのバトルでかなり傷つくこともあるでしょう。
さらに、野生のポケモンを傷つけてしまうこともあるでしょう。
そのとき傷ついたポケモンは当然ポケモンセンターに連れていかれるはずです。
その治療費は誰が負担するのでしょうか?
ポケモントレーナ―が野生のポケモンに出くわしたとして、そのバトルの原因をポケモントレーナ―に帰結させるのはあまりに酷。どうしても逃げられないこともあるでしょう。
そう、その治療費は、誰か特定の人が負担することが適切ではないのです。
お気づきでしょうか。
つまり、日常生活上のポケモンの怪我等を治療するための財源としてポケモンバトルでの賞金が設定され、それを得るためにポケモンバトルが振興されているということです。
要するに、こういうことです。
あえて浅く言ってしまえば、ポケモンバトルは税金集めのための娯楽でしかないのかもしれません。
そのインセンティブとして、ポケモンリーダー、ジムバッチ、チャンピオンリーグ等々がポケモンバトル振興政策として設置されているのだといえるでしょう。
そのため、はじめに立てた「なぜ人はポケモンバトルをするのか?」という問に対しては、
娯楽、競技、もしくは政府による財源確保のためのポケモンバトル振興の影響である。と言えるでしょう。
しかし、 ポケモンの世界の政府が「ポケモンバトル振興」を政策として進めている理由はそれだけではありません。これについては長くなってしまうので、また機会があれば文章を書きます。
今回もいい感じに生産性が無かったので、このへんで。
それでは。
人間って、愚かだ。
【考察】オーキドは「そりゃそうじゃ!」と言っているのか?
こんにちは。
みなさん、ポケモン、ゲットしていますか?
今回は、ポケモン研究界で最も有名な学者、オーキド博士(本名:オーキド・ユキナリ)についての考察です。
まずはみなさんに、ある提言をしたいと思います。
「めざせポケモンマスター」という曲があります。この曲は、アニメポケモンの主人公、サトシの声優である松本梨香さんが歌っていることでも有名な、日本のアニソンの中でも名曲中の名曲といえる歌です。
この曲の1番、サビにさしかかろうかという部分で、オーキド博士(CV:石塚運昇)がある台詞を発します。
「そりゃそうじゃ!」
この部分に関して、数年前からネット上で呈されている疑問があります。
知っている方も多いとは思いますが、この部分、オーキドは実際には
「沙羅双樹!」
と言っているのではないだろうか?という提言です。
「沙羅双樹」といえば、まず思い浮かぶのが『平家物語』の序文。
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
オーキド博士は、この『平家物語』の序文を前提として、「沙羅双樹!」と叫んでいるのではないでしょうか?
「は?」「何言ってんの?」「初代もプレイしてない奴が意味不明なこと言うな」と思う方もいるとは思いますが、この疑問のキーとなるのが、この部分の直前の歌です。
いつもいつでもうまくいくなんて
保証はどこにもないけど
お分かりいただけたでしょうか?
いつもうまくいく保証なんてない。
うまくいっていたからといって、ずっとうまくいくとは限らない。
そう、この部分、””盛者必衰””を意識しているとしか思えない歌詞になっているのです。
したがって、
【考察】オーキドは「沙羅双樹!」と言っているのではないか?
今回はこれを考えていきます。
(「沙羅双樹 フリー」で検索したら最初に出てきた画像です。沙羅双樹ってこれなの?)
まず、平家物語について簡単に。
軍記物語。作者不詳、信濃前司行長など諸説ある。
平家物語を語るうえで必ず言及しなければならないのが、この物語は琵琶法師が「平曲」という一種の曲として語り継いだということです。( 琵琶法師 - Wikipedia )
つまり、オーキドが「沙羅双樹!」と言っているのであれば、オーキド=琵琶法師である可能性が極めて高いといえます。
したがって、オーキドと琵琶法師の共通点について述べていくことで、オーキド=琵琶法師説の確信に迫ります。
①どちらもおっさんである。
これは明確な共通点です。オーキド⇒おっさん、琵琶法師⇒おっさんという事実は、オーキド=琵琶法師という説を補強しているといえるでしょう。
琵琶法師(Wikipediaより)どうみてもおっさん。
②様々な地方に影響を及ぼしている。
オーキド博士は、言わずと知れたカントー地方におけるポケモンの第一人者です。彼の功績はカントー地方以外にもおよび、ジョウト地方のウツギ博士やシンオウ地方のナナカマド博士とも親交があるといいます。
また、琵琶法師も様々な地方へ影響を及ぼす存在であり、Wikipediaによると
という。
どちらも、その影響力を各地に与えたという点で共通しているといえるでしょう。
平曲がカントー地方のポケモン図鑑とすると、薩摩琵琶や筑前琵琶はジョウト地方やシンオウ地方のポケモン図鑑といってもいいかもしれません。
③弟子を連れて二人でいることが多い。
琵琶法師について調べてみると、
絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
——「琵琶法師」Wikipediaより
ということが判明しました。
その瞬間、私の脳裏に、ある人物が浮上してきました。
こいつじゃん!!!!!!!!!
こいつじゃん……誰だったかマジで忘れましたが、幼いころ観ていたアニメポケモンに登場していたこいつ、たしかオーキド研究所にいましたし、オーキドの弟子と言っていい人物でしょう。
調べてみたら「ケンジ」って名前でした。そうだっけ?
一緒に旅に出ている描写はないかもしれませんが、若いころのオーキドがポケモン図鑑を埋めるための旅をしていたという事実から、たまには連れだって旅をすることもあったであろうことが容易に想像できます。
以上みてきたように、オーキドと琵琶法師の共通点は非常に多いといえます。
にわかにオーキド=琵琶法師説の信憑性が増してきました。
オーキドが「沙羅双樹!」と言ったことはほぼ確実になってきましたが、これまでの考察を踏まえて、ここで一度「めざせポケモンマスター」を聴いてみましょう。
https://youtu.be/E_BsL8_cFnE
めざせポケモンマスター!-松本梨香(オーキドの台詞は0:56ごろ)
【結論】「めざせポケモンマスター」のオーキドの台詞、どう聴いても「そりゃそうじゃ!」に聞こえる。
そもそも、歌ネットに(そりゃそうじゃ!)と書いてあるので1000000000000%「そりゃそうじゃ!」と言っています。(https://sp.uta-net.com/song/9951/)
オーキドと琵琶法師の関連性は0です。
それでは。
みんなもポケモン、ゲットじゃぞ~!