これまでの人生で一度も許したことがないものについて
【注意】今回、かなり私個人の怒りをぶつける記事になっています。
もしかすると気を悪くする方がいらっしゃるかもしれませんが、ご了承ください。
「ダジャレを言うのは誰じゃ?」
というダジャレをこれまで許せたことがない。
美しくないからである。
まずこのダジャレの美しくない点を2つ指摘しよう。
1.「ダジャレ」と「だれじゃ」ではかかっているのか微妙すぎる
最大の欠点である。そもそもこれはダジャレなのか?という疑問がある。
Wikipediaによると、ダジャレとは次のようなものである。
駄洒落(だじゃれ)とは、同じ或いは非常に似通った音を持つ言葉をかけて遊ぶ一種の言葉遊び。
「ダジャレを言うのは誰じゃ」という文言を仮にダジャレとするならば、これは「非常に似通った音を持つ言葉」をかけているということになるのだろう。
しかし、ここで注意しなければならないのが母音である。
「ダジャレ」の母音は「ああえ」であり、「誰じゃ」の母音は「あえあ」なのである。
ここがこのダジャレの美しくないところで、 「だ」「じゃ」「れ」の3つのパーツを使っていることは共通しているものの、母音が違うため全くダジャレ感が無いのである。
「だ」「じゃ」「れ」の3文字が共通していればダジャレになるだろうという、安易な思考の産物なのである。実に美しくない。
母音が違うという事実はかなり大きく、例えば「ダジャレを言うのは誰じゃ」よりは「ダジャレをいうのはサザエ」の方がダジャレ感があるだろう。と思ったけどそんなことなかったね。
ともかく、ダジャレに成り得ないワードを用いてアナグラム的に組み替え、それを無理矢理組み合わせたのが「ダジャレを言うのは誰じゃ?」という文言なのである。
2.無理矢理ダジャレにしようとする奴がいる
この事実には、私はかなり憤りを覚えている。
例えば、「ダジャレを言うのはだ(じゃ)れじゃ?」などという輩がこの日本に存在している。
「(じゃ)」ってなんだよ。「(じゃ)」じゃねえよ。
そもそも元のダジャレが美しくない上に、さらに加筆を加えて醜さを増進させる行い、まさに外道である。完全に道を外れている。
「2」の下に「ノ」をつけて無理に「3」にしようとする小学生と同程度の発想である。実に醜い。
もう一つある。「ダジャレを言うのはだじゃれ?」という文言である。
もはや意味不明である。日本語で話せ。
私が初めてこの文言に出会ったのは、アニメ「かいけつゾロリ」にあった毎週ダジャレをいうコーナー(あとで調べたところ、「どっきりびっくりおやじギャグコーナー」という名前だった)である。当時私は小学校低学年であったが、幼心に「いい加減にしてくれ」と思った記憶がある。
ここまで私の怒りを思うままに書いてきた。
ここまでインターネット上に怒りを表明したのは初めてだったため、不快な文章になっていないか心配な部分もあるが、この感情は事実であるため仕方がない。
比べて、私が最も美しいと考えるダジャレは
「アルミ缶の上にあるみかん」
である。
私が初めてこのダジャレに出会ったとき感動の涙を流したことを克明に記憶している。あれは運命の出会いだった。
このダジャレ、簡潔性と現実性という要素を完全に満たしている。
アルミ缶の上にあるみかん、つまり「みかん on the アルミ缶」である。何と簡潔であることだろうか。
この世界には「みかん」と「アルミ缶」しか存在しない。
この短文だけでその情景がありありと想像される。
あまりに美しい。
皆様におかれましても、人生の中で「美しさ」を追い求めてよりよいダジャレ・ライフを送って頂きたく思う。
それでは。
さよおなら。
「アツはナツいねえ」と最初に言った奴wwwwwwwwww
日本語学び直した方がいい。
【考察】ポケモンバトルが平然と行われている理由
こんにちは。
今回めちゃくちゃ真面目な話をします。
ポケモンバトルって、めちゃくちゃひどくないですか?
こないだポケモンをしていて、(詳細にはポケモンブラック2で殿堂入り後にシロナと戦っているときに)ふと自分のパーティーを見ると「ひんし」で赤く染まったポケモンたちの姿がありました。
そのとき思ったのです。「なんでこんなひどいことするの?」と。
ポケモンが「バトルしてえ~」と言っているのを聞いたことがありますか?少なくとも私はありません。
草むらから飛び出してきたポケモンとバトルになることもありますが、それはおそらくポケモンのすみかに立ち入った人間に驚いて、自己の生活の保護のために襲ってくるのでしょう。
ポケモントレーナー同士の自己満足のために、なんなら時には金儲けのために、何の罪もないポケモンたちを傷つけ合わせる。それがポケモンバトルです。
鬼畜の図。
なぜ人はポケモンバトルをするのか?
これは人類が目を背け続けている、「ポケモン」という世界における至上の命題なのです。
結論から言うと、この問題の原因はポケモンセンターにあります。
原因、というと語弊があります。この問題はそこまで単純なものなのではなく、より構造的な問題なのです。
順を追って解説しましょう。
これについて理解をしていただくためには、まず私が提言し続けている「ポケモンセンター公共事業説」について知っていただきたいと思います。
◆ポケモンセンター公共事業説とは(※完全に私の持論です。)
ポケモンセンターは公共事業である、つまり、政府によって運営されている施設であるという説です。
ポケモンセンターが無料で無限に使えることを疑問に思ったことはありませんか?これは、ポケモンセンターの運営が税金で賄われているからなのです。
ポケモンの治療費はもちろん、ジョーイさんの給与、ハピナスの餌食事代も税金で賄われています。奴ら全員公務員なのです。
そして、その税源は「ポケモンバトルによって発生する賞金」にあると思われます。
なぜなら、ポケモンバトルによってポケモンは傷つけられ、その傷を治療するのがポケモンセンターだからです。
つまり、こう考えることが一番筋が通っているのです。もしこれが正しければ、税源と用途が「ポケモントレーナ―」にあるので、税金としてかなり合理的なものであると考えられます。
しかし、そうなるとこの税金には一つだけ「穴」があります。
それは、手持ちのポケモンはポケモントレーナ―とのバトルだけではなく、野生のポケモンとのバトルにおいても傷つくということです。
ですが、私はこの「穴」こそがポケモンバトルをするそもそもの要因になっていると思うのです。
要するに、ポケモンはポケモントレーナ―による恣意的なバトルにおいてのみ傷つくのではなく、そもそも、生活するうえで(もしくは捕獲するために)自然に発生してしまう野生のポケモンとのバトルでも傷ついてしまうのです。
ポケモンは相手を瀕死にするまで殴り続けてしまう哀しい生き物なので、野生のポケモンとのバトルでかなり傷つくこともあるでしょう。
さらに、野生のポケモンを傷つけてしまうこともあるでしょう。
そのとき傷ついたポケモンは当然ポケモンセンターに連れていかれるはずです。
その治療費は誰が負担するのでしょうか?
ポケモントレーナ―が野生のポケモンに出くわしたとして、そのバトルの原因をポケモントレーナ―に帰結させるのはあまりに酷。どうしても逃げられないこともあるでしょう。
そう、その治療費は、誰か特定の人が負担することが適切ではないのです。
お気づきでしょうか。
つまり、日常生活上のポケモンの怪我等を治療するための財源としてポケモンバトルでの賞金が設定され、それを得るためにポケモンバトルが振興されているということです。
要するに、こういうことです。
あえて浅く言ってしまえば、ポケモンバトルは税金集めのための娯楽でしかないのかもしれません。
そのインセンティブとして、ポケモンリーダー、ジムバッチ、チャンピオンリーグ等々がポケモンバトル振興政策として設置されているのだといえるでしょう。
そのため、はじめに立てた「なぜ人はポケモンバトルをするのか?」という問に対しては、
娯楽、競技、もしくは政府による財源確保のためのポケモンバトル振興の影響である。と言えるでしょう。
しかし、 ポケモンの世界の政府が「ポケモンバトル振興」を政策として進めている理由はそれだけではありません。これについては長くなってしまうので、また機会があれば文章を書きます。
今回もいい感じに生産性が無かったので、このへんで。
それでは。
人間って、愚かだ。
【考察】オーキドは「そりゃそうじゃ!」と言っているのか?
こんにちは。
みなさん、ポケモン、ゲットしていますか?
今回は、ポケモン研究界で最も有名な学者、オーキド博士(本名:オーキド・ユキナリ)についての考察です。
まずはみなさんに、ある提言をしたいと思います。
「めざせポケモンマスター」という曲があります。この曲は、アニメポケモンの主人公、サトシの声優である松本梨香さんが歌っていることでも有名な、日本のアニソンの中でも名曲中の名曲といえる歌です。
この曲の1番、サビにさしかかろうかという部分で、オーキド博士(CV:石塚運昇)がある台詞を発します。
「そりゃそうじゃ!」
この部分に関して、数年前からネット上で呈されている疑問があります。
知っている方も多いとは思いますが、この部分、オーキドは実際には
「沙羅双樹!」
と言っているのではないだろうか?という提言です。
「沙羅双樹」といえば、まず思い浮かぶのが『平家物語』の序文。
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
オーキド博士は、この『平家物語』の序文を前提として、「沙羅双樹!」と叫んでいるのではないでしょうか?
「は?」「何言ってんの?」「初代もプレイしてない奴が意味不明なこと言うな」と思う方もいるとは思いますが、この疑問のキーとなるのが、この部分の直前の歌です。
いつもいつでもうまくいくなんて
保証はどこにもないけど
お分かりいただけたでしょうか?
いつもうまくいく保証なんてない。
うまくいっていたからといって、ずっとうまくいくとは限らない。
そう、この部分、””盛者必衰””を意識しているとしか思えない歌詞になっているのです。
したがって、
【考察】オーキドは「沙羅双樹!」と言っているのではないか?
今回はこれを考えていきます。
(「沙羅双樹 フリー」で検索したら最初に出てきた画像です。沙羅双樹ってこれなの?)
まず、平家物語について簡単に。
軍記物語。作者不詳、信濃前司行長など諸説ある。
平家物語を語るうえで必ず言及しなければならないのが、この物語は琵琶法師が「平曲」という一種の曲として語り継いだということです。( 琵琶法師 - Wikipedia )
つまり、オーキドが「沙羅双樹!」と言っているのであれば、オーキド=琵琶法師である可能性が極めて高いといえます。
したがって、オーキドと琵琶法師の共通点について述べていくことで、オーキド=琵琶法師説の確信に迫ります。
①どちらもおっさんである。
これは明確な共通点です。オーキド⇒おっさん、琵琶法師⇒おっさんという事実は、オーキド=琵琶法師という説を補強しているといえるでしょう。
琵琶法師(Wikipediaより)どうみてもおっさん。
②様々な地方に影響を及ぼしている。
オーキド博士は、言わずと知れたカントー地方におけるポケモンの第一人者です。彼の功績はカントー地方以外にもおよび、ジョウト地方のウツギ博士やシンオウ地方のナナカマド博士とも親交があるといいます。
また、琵琶法師も様々な地方へ影響を及ぼす存在であり、Wikipediaによると
という。
どちらも、その影響力を各地に与えたという点で共通しているといえるでしょう。
平曲がカントー地方のポケモン図鑑とすると、薩摩琵琶や筑前琵琶はジョウト地方やシンオウ地方のポケモン図鑑といってもいいかもしれません。
③弟子を連れて二人でいることが多い。
琵琶法師について調べてみると、
絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
——「琵琶法師」Wikipediaより
ということが判明しました。
その瞬間、私の脳裏に、ある人物が浮上してきました。
こいつじゃん!!!!!!!!!
こいつじゃん……誰だったかマジで忘れましたが、幼いころ観ていたアニメポケモンに登場していたこいつ、たしかオーキド研究所にいましたし、オーキドの弟子と言っていい人物でしょう。
調べてみたら「ケンジ」って名前でした。そうだっけ?
一緒に旅に出ている描写はないかもしれませんが、若いころのオーキドがポケモン図鑑を埋めるための旅をしていたという事実から、たまには連れだって旅をすることもあったであろうことが容易に想像できます。
以上みてきたように、オーキドと琵琶法師の共通点は非常に多いといえます。
にわかにオーキド=琵琶法師説の信憑性が増してきました。
オーキドが「沙羅双樹!」と言ったことはほぼ確実になってきましたが、これまでの考察を踏まえて、ここで一度「めざせポケモンマスター」を聴いてみましょう。
https://youtu.be/E_BsL8_cFnE
めざせポケモンマスター!-松本梨香(オーキドの台詞は0:56ごろ)
【結論】「めざせポケモンマスター」のオーキドの台詞、どう聴いても「そりゃそうじゃ!」に聞こえる。
そもそも、歌ネットに(そりゃそうじゃ!)と書いてあるので1000000000000%「そりゃそうじゃ!」と言っています。(https://sp.uta-net.com/song/9951/)
オーキドと琵琶法師の関連性は0です。
それでは。
みんなもポケモン、ゲットじゃぞ~!
【覚書】「面白い」という感情
最近の脳内を、大雑把に整理する。
文章を練っていないので、読みにくい部分がほとんどだと思います。
あらゆる「面白い」という感情は、対象物への共感(対象物への理解)なしに得ることはできないのではないか。
「意味がある」ものに対する理解を前提とした「面白さ」は、その対象物を理解している一定のコミュニティ(範囲)にのみ作用する。
「意味がある」ものに面白さを見出すのは、ある意味必然ともいえる。
しかし、実際には「意味がない」ものに対する「笑い」は多く存在する。
そこでは、「意味がない」ことを認知する過程が必要となる(のではないか)。
不条理ギャクマンガの笑いは、そこに「意味がない」ことを知っていなければ起こり得ないのではないか。
漫才師、お笑い芸人の謎のセリフ、謎の文言はそれと同じことがいえるのではないか。
例えば、ボボボーボ・ボーボボの漫画を、大真面目に、全て理解しようと読み進めて、そこに笑いは起こるのであろうか。
「ラッスンゴレライ」が何なのか真面目に考え込んでしまう人が8.6秒バズーカーのネタで笑うことは難しいだろう。
「意味がない」ことを「意味がない」ままに受け入れることができる人間は、
あるいは子供でさえ、
精神意識の奥底で、対象物は「意味がない」ということを理解しているのではないか。
「面白い」という感情は、「美しい」とかいう感情と比較して、相対的に主観的な感情であるように思える。
それだけに、一般化するのが難しい。
例外を踏まえながら、ある程度一般化できればいいのだが。
大迫選手からみるインターネット帰属意識
こんにちは。
文章長めです。部屋を明るくして離れて見てください。
最近世間はW杯一色で大盛り上がりを見せていますよね?W杯で世間が大盛り上がりを見せていない世界線の人はブラウザの戻るボタンを押して構いません。
私はサッカーに全く興味がありません。本当に興味がなく、サッカーの試合を1試合テレビで観れたことはありませんし、観ようとも思いません。「観たら楽しいよ!」と言われようと、別に観たくないのだから観ません。
今回はサッカーの話ではなく、W杯で盛り上がっている世間が存在することによって生じる二次被害について話がしたいので、文章を書いています。
二次被害と言いましたが、特に害を被っている訳ではなく私の語彙でそれに当てはまるものが見つからなかったため、二次被害と言わざるを得ず、このような表現になっていることを了承ください。
最近、Twitterで下記のようなツイートを目にします。
〇〇半端ないって。あいつ半端ないって。
〇〇してるもん。そんなんできひんやん、普通。
突如としてTwitterに現れた謎の構文。しかも、気づけばRTでまわってくるわフォロワーの方がツイートするわでタイムラインを埋め尽くすまでになってきています。
SNSにしか自分の居場所を見出すことが出来ない私は、これは一体なんの騒ぎなのだと慌てふためきました。ので、とりあえず、私が「調べ物」という分野においては全幅の信頼を置いているAI、Siriに相談してみました。
Siriによるとそれはできないそうなので、仕方なく諦めて自分で調べることにしました。Siriに対する私の信頼が崩れ去った瞬間でした。
そして、おそらく一連のツイートは以下のことを元ネタとするものであるということが判明いたしました。
大迫半端ないって - ニコ百
なるほど、おそらく大迫さんというサッカー選手の方がW杯で活躍していてその繋がりでこの構文が流行っている(?)ということがなんとなく掴めました。
しかしながら私は大迫選手を存じ上げていませんし、冒頭で言ったようにサッカーに対して全く興味が無いため、大迫選手を知りたいとも思えません。
それでもTwitterには謎の構文が流れ、私にはTwitterしか居場所がありません。自分が居場所だと思っていた場所が、いつのまにか自分の知らない場所になってしまっている。
まるで数年離れた故郷に帰ってきたかのような疎外感。
しばらくポケモンをやっていなかったらいつのまにかメガシンカという謎の新要素が追加されていた時のような衝撃。
そういったものに襲われながらも、私はTwitterで生きなければならない。
ここで注意しておきたいのは、この疎外感の理由は自分が全くサッカーに興味がなく大迫選手のことを知らないからという至極単純なものであることは、自分でもわかっているということです。
もし自分がそういったことに深い知識を持っていたのであれば、今回の「〇〇半端ないって」構文も十二分に楽しむことが出来ていたでしょう。
そもそも、なぜTwitterにおいて『構文』と呼ばれるものが流行るのか。
これはもはや日本文化のひとつともいえる「お約束」という概念にその片鱗を見出すことができます。
「様式美」といってもいいかもしれません。
『構文』は、その構文を把握している人にとっては非常に愉快なものであるといえます。それは、単純な語感(もしくは語意)の面白さと、「その構文を理解しているコミュニティ」への帰属意識によって引き出されるものです(諸説あり)。
『構文』の理解にはこの二つの要素が不可欠なのではないでしょうか。
あなたがもし一昔前、「ぽきたw魔剤ンゴ!?」とか言っていたり、「前前前世(RADWIMPS)」の歌詞改変を垂れ流していたりしたのであれば、この考えに一定の理解を示すことが出来るはずです。
また、アカウント名が「〇〇松」であったり「〇〇㌠」であったりするTwitter文化も、似たようなことが言えるでしょう(ただし、このような事例に関しては前述のことに先立って特定のコンテンツへの愛が存在するということは考慮しなければならない)。
ここまで述べたように、Twitter文化(ひいてはインターネット、SNSの文化)の理解には、「お約束」文化の理解と帰属意識という要素の把握が欠かせないものなのです。
今回私が「大迫半端ないって構文」に対して疎外感を持つに至ったのは、私自身が、「大迫半端ないって構文」の「お約束」要素やその背景への理解が足りていないからでしょう。
そんな私が「大迫半端ないって構文」に溢れかえるTwitterに疎外感を覚えるのは、もはや仕方のないことだといえます。
しかし、SNSによって得られる「疎外感」もまた、SNSの醍醐味なのかもしれません。
あらゆる感情とうまく付き合いながら、SNSを使っていきたいものです。
それでは。