フィクション日本銀行券
自分がいま読んでる漫画『天国大魔境』(石黒正数、アフタヌーン)の中で出てきた日本銀行券の一万円札は福沢諭吉の顔が印刷されていた。
先日ニュースでやっていたが、2022年以降の日本銀行券、一万円札には渋沢栄一の顔が印刷されるらしい。
『天国大魔境』は(たぶん)設定としては日本の未来を描いている。
つまり、未来の日本を描いているはずの『天国大魔境』の世界観が、部分的には、2022年の日本に辿り着くことができないことになった。
そういえば、つい先日読んでいた古い漫画(なんだったかわすれた)に新渡戸稲造の五千円札が出ていた。
今となってはほとんど流通していないが、新渡戸稲造のお札は90年代の日本では当たり前に使われていた(らしい)。
もしかすると、90年代に描かれた漫画の中には、まだ新渡戸稲造の五千円札が使われている2019年の日本を描いたものもあるのかもしれない。
フィクションはあくまでフィクション。そもそも現実との整合性を議論することは妥当ではないのかもしれないが、時代の流れによってフィクション度合い(???)が強まるというのは、すこしおもしろい。
と思いました。
hako
箱に閉じ込められている。
この箱の中に存在する人びとはみな、ここから脱出する事を目的にしている。
いや、「目的のためにここを脱出しようとしている」といったほうが、まだ事実に近いのかもしれない。
閉じ込められている状況の中で、誰一人として動揺している者はいない。誰もが、当然ここから出ることができると思っている。それどころか、ほとんどの人間は、全く知らない他人同士が集まったこの状況の中で、リラックスすらしているようだ。
この箱の中でおそらく最もリラックスしていないのは、私の視界の端に見える、幼い男の子を連れた女性である。この箱は時折ひどく揺れるのだが、そのたびにその子供が泣き出すので、女性はあやすのに大変そうである。
そう、この箱は時折大きく揺れる。定期的に訪れるその揺れに、私は毎回驚いてしまうのだが、周りの人間の多くは気にも留めない。私の隣の女性など、PCを広げて何か作業をしている。大きな揺れも問題なのだが、それ以上に、制限時間のあるこの箱の中で、よくそんなことができるものだ。
制限時間がある。その制限時間は人によって様々だ。先に箱に入ったものが先に脱出するとは限らない。
私の目の前の若者はずっとスマホをいじっている。この男は、私がここに来る前からこの場所にいた。髪が長く、少ししか見えないが、どうやらBluetoothのイヤホンをしているらしい。
私がそのイヤホンに気づいた理由は、その若者の横で立っている男の行動に、その若者が気づいていないからである。背広を着て眼鏡をかけた、50歳前後であろう大柄なその男は、手持無沙汰なのかその若者のスマホの画面をちらちらとみている。その度に眼鏡がずれるのだが、位置を直すときにカチャカチャと音が鳴るのだ。
この箱は、かなり無機質だ。
一つの箱の中に何人もの人間が詰められているのに、ここは共空間になっていない。一人ひとりが固有の空間を持っていて、それを妨害されることを望んでいない。望んで妨害しようという者も殆どいない。それでいて、それぞれがほかの人間に対して、規律正しくあることを要求している。無言の中で。
箱の中の人びとに分け隔てなく与えられるものといえば、定期的にスピーカーから流れる、感情の無い声のアナウンスくらいなものだ。が、多くの人間はそのアナウンスに興味がないようである。というより、敢えて傾聴しなくとも、何を言っているかはわかっているのだろう。
私はすることもないので、箱の様子を見渡しながらアナウンスを聴いていた。おもむろに、目の前の若者が立ち上がり、箱から出ていった。視界の端にいた親子も、手をつないで出ていった。この箱から出ていくことは、実質的には非常に簡単なことだ。重要なのは、この箱からどの時点で出ていくか、ということである。
新たな人間たちが入ってきた。私より後にこの場所に入ってきた彼らが出ていくのは、私より後だろうか、先だろうか。
と、考えていたものの、すぐにそれを考えるのは無意味なことだと気づいた。なぜなら、次は私が出ていく番だからである。
「降り口は右側です」というアナウンスを確認し、私はこれから開くであろう扉の前に立った。
じゃがりこの怖い噂
じゃがりこってありますよね?
実はあれの原料、人間の骨らしいんです。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。うそでつ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。すまん
最も「モンスターハンター」の武器になりそうなカタカナ
「ル」か「メ」
電車に乗るということ
それは目的地があるということだ。
と、思う。
電車に乗っている一人ひとりがある目的地を目指している。目的地に向かうために電車に乗っているのである。
たとえ目的地を持たずにふらりと電車に乗り込む人がいたとして、その人もどこかの駅で降りることになる。これは後付け的にはなるが「目的地」と呼ぶことができるだろう。
誰かの通過点は誰かの目的地である。
また、誰かの出発点が誰かの目的地であり得る。
これらのことは当然のことではある。当然のことである余り普段そんなことは意識しない。
そしてその駅を目的地としている人にとっても、その駅は通過点でしかない。
駅で降り、改札を抜け、足取りを進めることによってのみ目的地へ向かうことができるのだから。
すべての駅は誰かの目的地である。
それと同時に、そこに辿りついた全ての人々にとっての通過点である。
当たり前のことだけれど、電車というものについて考えるまで気付くことが無かった。
という話。
これまでの人生で一度も許したことがないものについて
【注意】今回、かなり私個人の怒りをぶつける記事になっています。
もしかすると気を悪くする方がいらっしゃるかもしれませんが、ご了承ください。
「ダジャレを言うのは誰じゃ?」
というダジャレをこれまで許せたことがない。
美しくないからである。
まずこのダジャレの美しくない点を2つ指摘しよう。
1.「ダジャレ」と「だれじゃ」ではかかっているのか微妙すぎる
最大の欠点である。そもそもこれはダジャレなのか?という疑問がある。
Wikipediaによると、ダジャレとは次のようなものである。
駄洒落(だじゃれ)とは、同じ或いは非常に似通った音を持つ言葉をかけて遊ぶ一種の言葉遊び。
「ダジャレを言うのは誰じゃ」という文言を仮にダジャレとするならば、これは「非常に似通った音を持つ言葉」をかけているということになるのだろう。
しかし、ここで注意しなければならないのが母音である。
「ダジャレ」の母音は「ああえ」であり、「誰じゃ」の母音は「あえあ」なのである。
ここがこのダジャレの美しくないところで、 「だ」「じゃ」「れ」の3つのパーツを使っていることは共通しているものの、母音が違うため全くダジャレ感が無いのである。
「だ」「じゃ」「れ」の3文字が共通していればダジャレになるだろうという、安易な思考の産物なのである。実に美しくない。
母音が違うという事実はかなり大きく、例えば「ダジャレを言うのは誰じゃ」よりは「ダジャレをいうのはサザエ」の方がダジャレ感があるだろう。と思ったけどそんなことなかったね。
ともかく、ダジャレに成り得ないワードを用いてアナグラム的に組み替え、それを無理矢理組み合わせたのが「ダジャレを言うのは誰じゃ?」という文言なのである。
2.無理矢理ダジャレにしようとする奴がいる
この事実には、私はかなり憤りを覚えている。
例えば、「ダジャレを言うのはだ(じゃ)れじゃ?」などという輩がこの日本に存在している。
「(じゃ)」ってなんだよ。「(じゃ)」じゃねえよ。
そもそも元のダジャレが美しくない上に、さらに加筆を加えて醜さを増進させる行い、まさに外道である。完全に道を外れている。
「2」の下に「ノ」をつけて無理に「3」にしようとする小学生と同程度の発想である。実に醜い。
もう一つある。「ダジャレを言うのはだじゃれ?」という文言である。
もはや意味不明である。日本語で話せ。
私が初めてこの文言に出会ったのは、アニメ「かいけつゾロリ」にあった毎週ダジャレをいうコーナー(あとで調べたところ、「どっきりびっくりおやじギャグコーナー」という名前だった)である。当時私は小学校低学年であったが、幼心に「いい加減にしてくれ」と思った記憶がある。
ここまで私の怒りを思うままに書いてきた。
ここまでインターネット上に怒りを表明したのは初めてだったため、不快な文章になっていないか心配な部分もあるが、この感情は事実であるため仕方がない。
比べて、私が最も美しいと考えるダジャレは
「アルミ缶の上にあるみかん」
である。

私が初めてこのダジャレに出会ったとき感動の涙を流したことを克明に記憶している。あれは運命の出会いだった。
このダジャレ、簡潔性と現実性という要素を完全に満たしている。
アルミ缶の上にあるみかん、つまり「みかん on the アルミ缶」である。何と簡潔であることだろうか。
この世界には「みかん」と「アルミ缶」しか存在しない。
この短文だけでその情景がありありと想像される。
あまりに美しい。
皆様におかれましても、人生の中で「美しさ」を追い求めてよりよいダジャレ・ライフを送って頂きたく思う。
それでは。
さよおなら。