8時ごろだったが、人が多かったので、みんなちゃんと生きてるんだなと感心した。
わさびいなりとしょうがいなり。
8時に開店していたのでかなり働く意欲のある店と思って間違いないだろう。
この時は気づいてなかったが、西鉄の駅前の空間の天井には鏡があるんだな。
今度注意して見てみよう。
朝だからこそかもしれないが、西鉄の下り電車は混んではいなかった。
電車の中でいなりを食べるのはセーフですか?アウトですか?…
判断がつかなかったので、いなりは降車まで袋の中に入ったままであった。
某駅で降りて、某市で仕事を済ませた。
お昼休憩をとって、つぎの場所へ、と思って歩いていたら
!?
”無”の自販機
適当に置かれているにしてはかなりキレイな状態だったので、たぶん誰かのインテリア。
私物なのに勝手に撮ってすまん。という気持ち。
このときは気づかなかったが、左上やたら濡れててちょっと嫌だな。
もうそのあとはその日はなんもなかった。
無の自販機を見て思い出したことがある。
小学4年~中学生くらいまで、自分はあることに恐怖を覚えながら生きていた。
それは、「今この瞬間の一瞬前まで”無”だったのかもしれない」という考えである。
”今現在”、自分が存在していることはなんとなく理解できる。
しかし、一瞬前まで自分が存在していなかったかもしれないと思ってしまう―――言い換えれば、一瞬前にも自分が存在していたという確証が持てない―――ということだ。
その確証を得るための手がかりとなるのが、
①一瞬前に自分が存在していたという記憶
②今現在自分が存在しており、次の瞬間にも存在しているという事実
であった。
①について。
普段生きている中で、過去を認識するために最も用いるのが記憶ではないかと思う。
一瞬前に自分が存在していたという記憶は、一瞬前に自分が存在していたという過去の経験に基づくものであり、それゆえ記憶によって過去を認識することができる。
しかし、記憶がもし過去の経験に基づくものではないとしたら、記憶によって過去を認識することができなくなる。
つまり、一瞬前に自分が存在していたという確証を記憶によって得るためには、記憶というものは過去の経験に基づくものであるという確証を得なければならない。
だが、記憶というものが過去の経験に基づくものであるという確証も得られない。記憶違い、というものも普段生きている中でいくらでもあるし、デジャヴュというものもある。記憶というものは、自分が信頼するにはあまりに不安定なものであった。
したがって、「①一瞬前に自分が存在していたという記憶」によって、「一瞬前にも自分が存在していたという確証」は得られなかった。
②について。
今現在自分が存在しており、次の瞬間にも存在しているという事実があれば、帰納的に一瞬前にも存在していた可能性が高いと考えることができる。
しかし、「次の瞬間にも存在しているという事実」はあまりにも不確定すぎる。
次の瞬間にも存在しているのではないか?という予想はできるが、実際に次の瞬間になってみないと存在しているかどうかはわからない。
そして、実際に次の瞬間になってしまったあとでは、その一瞬前(元の"現在")には存在していたかどうかわからない。
したがって、「②今現在自分が存在しており、次の瞬間にも存在しているという事実」によっても「一瞬前にも自分が存在していたという確証」は得られなかったのである。
こういった理由から、一瞬前にも自分が存在していたという確証が持てず、不思議な恐怖にとらわれていた時期があった。
その恐怖から逃れたのは、一瞬前に自分が存在してようがしてまいがどっちでもいいわ、となんとなく思ったからである。
自分がその思考を得たきっかけは、おそらく、『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!』という映画である。
この映画の中で「コンニャクローン」という、つまるところクローン人間が登場して、実際の人物の代わりとして生活するシーンがあるのだが、
これを見た小学生の私は人間を人間たらしめる要素とはなんなのかわからなくなり、
上のような思考に至り、なんとなく恐怖を感じていたのである。
この文章を見ている方がもし居れば、一瞬前に自分が本当に世界に存在していたのかどうか疑ってみて、微妙な気持ちになってみては……?
それでは