雑記かけうどん

あしからず

誰もサカナクションの「モス」をヒルナンデスのテーマだと思っていない話

私は長く、ヒルナンデスのテーマを

ヒル↑ ヒル↑ ヒル↑ナ↑ン↓デ↓ス↑」

と思っていた。

 

しかし、本当は

ヒル↑ ヒル↑ ヒル↑ナ↓ン↑デ↓ス↑」

だった。

 

 

というだけの話なのだが、ちょっと聞いてほしい。

 

私はヒルナンデスをリアルタイムで視聴したことがない。

ヒルナンデスをわざわざ録画で視聴するような人間は存在しないので、ヒルナンデスをリアルタイムで視聴したことがないということは、つまりヒルナンデスを視聴したことがないということだ。

 

そんな私でも、ヒルナンデスのテーマソングが「ヒル ヒル ヒルナンデス」というフレーズであることくらいは知っていた。

CMかなにかで聞いたから知っているのだろうが、私の頭の中では、そのフレーズは「ヒル↑ ヒル↑ ヒル↑ナ↑ン↓デ↓ス↑」という音程で認知されていた。

 

 

そして、つい最近その音程に一致する音楽を知った。

 

それが、サカナクションの「モス」という曲の、最初のイントロの3秒間である。

 

驚いたことに、iTunesへのリンクとして「モス」の最初の数秒をここに貼ることができた。

ので、お聴きください。

 

モス

モス

  • provided courtesy of iTunes

 

これが、私の頭の中の「ヒルナンデス」テーマソングとほぼ100%一致した。

 

初めにこのイントロを聴いた瞬間、「新しいヒルナンデスのテーマソングかな?」と純粋に思ったほどだった。

 

私がはじめて「モス」を聴いたのは6月24日。

「モス」の入ったアルバム『834.194』が発売されたのは6月19日だったので、ツイッターは「モス」のイントロがヒルナンデスのテーマに似ていることで持ち切りだろうと思い、検索してみると

 

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??????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????

 

ほんまに?

だれも同じこと思ってないの?

 

 

孤独を感じた私は急いでYoutubeヒルナンデスのテーマソングを検索した。

 

 

この音楽を聴いた私は、

 

な~んだ、「ヒル↑ ヒル↑ ヒル↑ナ↑ン↓デ↓ス↑」じゃなくて「ヒル↑ ヒル↑ ヒル↑ナ↓ン↑デ↓ス↑」だったのか!!!

 

なるほどね~

 

となった。

 

おしまい。

フィクション日本銀行券

自分がいま読んでる漫画『天国大魔境』(石黒正数アフタヌーン)の中で出てきた日本銀行券の一万円札は福沢諭吉の顔が印刷されていた。

先日ニュースでやっていたが、2022年以降の日本銀行券、一万円札には渋沢栄一の顔が印刷されるらしい。

 

『天国大魔境』は(たぶん)設定としては日本の未来を描いている。

つまり、未来の日本を描いているはずの『天国大魔境』の世界観が、部分的には、2022年の日本に辿り着くことができないことになった。

 

 

そういえば、つい先日読んでいた古い漫画(なんだったかわすれた)に新渡戸稲造の五千円札が出ていた。

今となってはほとんど流通していないが、新渡戸稲造のお札は90年代の日本では当たり前に使われていた(らしい)。

 

もしかすると、90年代に描かれた漫画の中には、まだ新渡戸稲造の五千円札が使われている2019年の日本を描いたものもあるのかもしれない。

 

 

フィクションはあくまでフィクション。そもそも現実との整合性を議論することは妥当ではないのかもしれないが、時代の流れによってフィクション度合い(???)が強まるというのは、すこしおもしろい。

と思いました。

hako

箱に閉じ込められている。

 

 

この箱の中に存在する人びとはみな、ここから脱出する事を目的にしている。
いや、「目的のためにここを脱出しようとしている」といったほうが、まだ事実に近いのかもしれない。


閉じ込められている状況の中で、誰一人として動揺している者はいない。誰もが、当然ここから出ることができると思っている。それどころか、ほとんどの人間は、全く知らない他人同士が集まったこの状況の中で、リラックスすらしているようだ。

 

この箱の中でおそらく最もリラックスしていないのは、私の視界の端に見える、幼い男の子を連れた女性である。この箱は時折ひどく揺れるのだが、そのたびにその子供が泣き出すので、女性はあやすのに大変そうである。

 

そう、この箱は時折大きく揺れる。定期的に訪れるその揺れに、私は毎回驚いてしまうのだが、周りの人間の多くは気にも留めない。私の隣の女性など、PCを広げて何か作業をしている。大きな揺れも問題なのだが、それ以上に、制限時間のあるこの箱の中で、よくそんなことができるものだ。

 

制限時間がある。その制限時間は人によって様々だ。先に箱に入ったものが先に脱出するとは限らない。

 


私の目の前の若者はずっとスマホをいじっている。この男は、私がここに来る前からこの場所にいた。髪が長く、少ししか見えないが、どうやらBluetoothのイヤホンをしているらしい。

 

私がそのイヤホンに気づいた理由は、その若者の横で立っている男の行動に、その若者が気づいていないからである。背広を着て眼鏡をかけた、50歳前後であろう大柄なその男は、手持無沙汰なのかその若者のスマホの画面をちらちらとみている。その度に眼鏡がずれるのだが、位置を直すときにカチャカチャと音が鳴るのだ。

 

この箱は、かなり無機質だ。


一つの箱の中に何人もの人間が詰められているのに、ここは共空間になっていない。一人ひとりが固有の空間を持っていて、それを妨害されることを望んでいない。望んで妨害しようという者も殆どいない。それでいて、それぞれがほかの人間に対して、規律正しくあることを要求している。無言の中で。

 


箱の中の人びとに分け隔てなく与えられるものといえば、定期的にスピーカーから流れる、感情の無い声のアナウンスくらいなものだ。が、多くの人間はそのアナウンスに興味がないようである。というより、敢えて傾聴しなくとも、何を言っているかはわかっているのだろう。

 

私はすることもないので、箱の様子を見渡しながらアナウンスを聴いていた。おもむろに、目の前の若者が立ち上がり、箱から出ていった。視界の端にいた親子も、手をつないで出ていった。この箱から出ていくことは、実質的には非常に簡単なことだ。重要なのは、この箱からどの時点で出ていくか、ということである。

 

新たな人間たちが入ってきた。私より後にこの場所に入ってきた彼らが出ていくのは、私より後だろうか、先だろうか。

 


と、考えていたものの、すぐにそれを考えるのは無意味なことだと気づいた。なぜなら、次は私が出ていく番だからである。

 


「降り口は右側です」というアナウンスを確認し、私はこれから開くであろう扉の前に立った。

じゃがりこの怖い噂

じゃがりこってありますよね?

実はあれの原料、人間の骨らしいんです。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。うそでつ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。すまん

電車という箱の中に無数に点在する物語

読書感想文。

 

 

品田遊『止まりだしたら走らない』を読んだ。

止まりだしたら走らない

止まりだしたら走らない

 

 

品田遊、というと聞いたことがない方も多いかもしれないが、Twitterでは"ダ・ヴィンチ・恐山"という名前で活動している人物だ。詳しくは以下のTwitterアカウントページを見て頂きたい。

ダ・ヴィンチ・恐山(品田遊) (@d_v_osorezan) | Twitter

 

 

Webライターとしてのダ・ヴィンチ・恐山の書く文章が好きだったので、小説家としての品田遊が書く小説を読んでみようと思い、今回『止まりだしたら走らない』を読んだ。

 

結論から言うと、とても好きだった。

 

どういうところが、ということを、ネタバレとならないよう気を付けながら書いていこうと思う。

 

まず、この本の概要について。amazonの紹介文から引用する。

都心から武蔵野の台地を横切り東京を横断する中央線車内を舞台に、
さまざまなヒトたちの個人的な問題をあぶり出す連作短編集。
現代人の共感を呼ぶ、あの人の、私の、誰かの、車内事情。

 

舞台は東京、中央線である。

短編集とは言いつつ、柱として東京駅から高尾山に向かう2人の物語がある。武蔵小金井の高校の自然科学部に所属する都築後輩と新渡戸先輩の2人の物語である。

 

都築後輩の目線で語られる中央線車内(時に車外)の連作と、他の登場人物の短編が交互に描かれているのがこの『止まりだしたら走らない』という本である。

 

 

この本では、それぞれの登場人物の内部に流れる物語がそのまま描かれている。

「内向しすぎて破壊的」というフレーズで紹介されているが、まさしくその通りで、その意味は読んでみないとわからない。

 

会社員、オタク、露出狂、嘘吐き、外国人、女子高生、女子中学生、教員、駅員……それぞれの内部が描かれる。

 

改札口、盗撮、知恵袋、今日の出来事、今日の夕飯、昔の出来事、恋心……あらゆることが描かれる。

 

中央線に乗車する人々の内部が描かれる。

それらの物語は時に交差し、時に全く交差しない。

しかし、確かにひとつひとつの物語はひとつひとつの物語として存在している。

 

その心地よさと驚きを感じることができる。

「面白い」というより、心地よさと驚きの方が大きかった。

非常に良い本だった。

 

 

 あと、イラストがerror403さんなのでそこもとても良いです。

2nd_error403 (@2nd_error403) | Twitter

 

 

 

 

 

 

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何を言っているのかわからない感想(+α)

 

同じ電車を扱っている本として有川浩阪急電車』がある。

それぞれの人の物語が交差するという点では似ている部分があるとはいえる。

しかし、完全に『阪急電車』とは違う点がある。

 

作者が違う、ということである。

 

当たり前だ、と思われるかもしれない。私もそう思う。

この本『止まりだしたら走らない』は、品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)だからこそ書ける本である。

 

この本のすごいところは、

登場人物が全員ダ・ヴィンチ・恐山であるということだ。

それでいて、登場人物が全員違う自我を持っている。

 

登場人物が全員ダ・ヴィンチ・恐山というと語弊があるかもしれない。

さらに正確に言おうとするなら、登場人物ひとりひとりからダ・ヴィンチ・恐山の視野を感じることができるということだ。

これも、ダ・ヴィンチ・恐山が書いているのだから当然と言われるかもしれない。

私もそう思う。

だが、この本を読むとさらにそう思わざるを得ないのである。

 

何を言っているかわからない、と思う方はとりあえず読んでほしい。

恐らく、少しは共感していただけることだろう。

 

とにかく、本当にオススメの小説である。