雑記かけうどん

全くもって何かを主張したいわけではない

もにょ

ふと、将来「一般人」という言葉は消失していくのではないか、と思った。

 

普通に生活していても、隣の人が考えていることと私が考えていることは違うだろう。

それは当たり前としても、何かを見たり、聞いたり、知ったりしたときに、隣の人が感じることと私が感じることは違うだろう。

 

それも当り前かもしれないが、歴史的(というほど大きな枠組みではないが)に見たときに、現在の社会は、かなり一人一人の考えが異なっている。ゲマインシャフトだのゲゼルシャフトだのはよくわからないが。

 

その要因の一つにスマートフォンの普及があげられるだろう。少し前の時代では、民衆が情報を得るための手段は、基本的にテレビ、新聞だったのだろうが、それらがもたらしていた情報は、スマートフォンを通して得られる情報に比べて、「多様性」という点では比べるべくもなく劣っているだろう。

 

話は変わるが、私は21歳で、社会的には「若者」である。よく言われることだが、若者でない人びとが使う「近頃の若い者は」という言葉の「若い者」の中に勝手に私を入れないでほしいと思うし、若者が使う「私たち若者は」という言葉の「若者」の中に勝手に私を入れないでほしいと思う。

 

もっと言うとある思想の人がよく使う「日本人は~である」という言葉の「日本人」の中に勝手に私を入れないでほしいと思う日本人もいるのだろう。

 

 

とにかく、いま、「個人」を「何らかの枠組み」の中に所属するものとみなすことに少なからず抵抗がある。そのこと自体に妥当性は多少あるのだろうし、歴史的にも、ある時代に生きている個人は「その時代のある枠組み」の中の一部とみなされることが非常に多かったのだろう。

しかし、いま、「一般人」という言葉で人間を一般化するには人間は、多様性を持ちすぎたのじゃないかと、ふと思った。

 

 

と、思っていたのだが、最近、SNSとかをみていて、何か特定のものを叩く行為への便乗だとか、逆に、なにかを素晴らしいものとして認めなければならないような同調圧力だとか、

そういうものが目に付くことが多く、結局、個人は何かの枠組みへ所属し続けるのかもなとも思った。

自分も含めて。

 

 

 

基本的に、日本においての話をしている。

 

多様性という観点においてスマートフォンをはじめWebから得られる情報の優位性について言及したが、本当に多様性という観点においてのみ、そう思っているだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。現時点で、情報の質として、テレビ・新聞の情報がWebメディアの情報より劣っているとは思っていない。TV新聞において偏向報道などの問題は依然として存在するのは確かだが、それでもWebメディアの情報の質自体は非常に悪劣だと、個人的には思っている。どちらにせよ、受け取る側の問題でもあるのだろうけれど。