雑記かけうどん

あしからず

大迫選手からみるインターネット帰属意識

こんにちは。

 

文章長めです。部屋を明るくして離れて見てください。

 

最近世間はW杯一色で大盛り上がりを見せていますよね?W杯で世間が大盛り上がりを見せていない世界線の人はブラウザの戻るボタンを押して構いません。

 

私はサッカーに全く興味がありません。本当に興味がなく、サッカーの試合を1試合テレビで観れたことはありませんし、観ようとも思いません。「観たら楽しいよ!」と言われようと、別に観たくないのだから観ません。

 

今回はサッカーの話ではなく、W杯で盛り上がっている世間が存在することによって生じる二次被害について話がしたいので、文章を書いています。

 

二次被害と言いましたが、特に害を被っている訳ではなく私の語彙でそれに当てはまるものが見つからなかったため、二次被害と言わざるを得ず、このような表現になっていることを了承ください。

 

 

 

最近、Twitterで下記のようなツイートを目にします。

 

〇〇半端ないって。あいつ半端ないって。

〇〇してるもん。そんなんできひんやん、普通。

 

突如としてTwitterに現れた謎の構文。しかも、気づけばRTでまわってくるわフォロワーの方がツイートするわでタイムラインを埋め尽くすまでになってきています。

 

SNSにしか自分の居場所を見出すことが出来ない私は、これは一体なんの騒ぎなのだと慌てふためきました。ので、とりあえず、私が「調べ物」という分野においては全幅の信頼を置いているAI、Siriに相談してみました。

 

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Siriによるとそれはできないそうなので、仕方なく諦めて自分で調べることにしました。Siriに対する私の信頼が崩れ去った瞬間でした。

そして、おそらく一連のツイートは以下のことを元ネタとするものであるということが判明いたしました。

 

‪大迫半端ないって - ニコ百

http://dic.nicovideo.jp/id/952441

 

なるほど、おそらく大迫さんというサッカー選手の方がW杯で活躍していてその繋がりでこの構文が流行っている(?)ということがなんとなく掴めました。

 

しかしながら私は大迫選手を存じ上げていませんし、冒頭で言ったようにサッカーに対して全く興味が無いため、大迫選手を知りたいとも思えません。

 

それでもTwitterには謎の構文が流れ、私にはTwitterしか居場所がありません。自分が居場所だと思っていた場所が、いつのまにか自分の知らない場所になってしまっている。

まるで数年離れた故郷に帰ってきたかのような疎外感。

しばらくポケモンをやっていなかったらいつのまにかメガシンカという謎の新要素が追加されていた時のような衝撃。

そういったものに襲われながらも、私はTwitterで生きなければならない。

 

ここで注意しておきたいのは、この疎外感の理由は自分が全くサッカーに興味がなく大迫選手のことを知らないからという至極単純なものであることは、自分でもわかっているということです。

 

もし自分がそういったことに深い知識を持っていたのであれば、今回の「〇〇半端ないって」構文も十二分に楽しむことが出来ていたでしょう。

 

そもそも、なぜTwitterにおいて『構文』と呼ばれるものが流行るのか。

これはもはや日本文化のひとつともいえる「お約束」という概念にその片鱗を見出すことができます。

「様式美」といってもいいかもしれません。

 

『構文』は、その構文を把握している人にとっては非常に愉快なものであるといえます。それは、単純な語感(もしくは語意)の面白さと、「その構文を理解しているコミュニティ」への帰属意識によって引き出されるものです(諸説あり)。

 

『構文』の理解にはこの二つの要素が不可欠なのではないでしょうか。

あなたがもし一昔前、「ぽきたw魔剤ンゴ!?」とか言っていたり、前前前世(RADWIMPS)」の歌詞改変を垂れ流していたりしたのであれば、この考えに一定の理解を示すことが出来るはずです。

また、アカウント名が「〇〇」であったり「〇〇」であったりするTwitter文化も、似たようなことが言えるでしょう(ただし、このような事例に関しては前述のことに先立って特定のコンテンツへの愛が存在するということは考慮しなければならない)。

 

ここまで述べたように、Twitter文化(ひいてはインターネット、SNSの文化)の理解には、「お約束」文化の理解と帰属意識という要素の把握が欠かせないものなのです。

 

今回私が「大迫半端ないって構文」に対して疎外感を持つに至ったのは、私自身が、「大迫半端ないって構文」の「お約束」要素やその背景への理解が足りていないからでしょう。

そんな私が「大迫半端ないって構文」に溢れかえるTwitterに疎外感を覚えるのは、もはや仕方のないことだといえます。

 

しかし、SNSによって得られる「疎外感」もまた、SNSの醍醐味なのかもしれません。

あらゆる感情とうまく付き合いながら、SNSを使っていきたいものです。

 

それでは。