雑記かけうどん

全くもって何かを主張したいわけではない

イキスギ

 

①よくよくなにか一つのきっかけで「価値観が変わった」とか「人生が変わった」とか言う人が居るけれどそんな簡単にコロっと変わるような価値観しか持っていなかったのだろうかそんな人生しか歩んでなかったのだろうか。

 
とか
 
②なにか一つのきっかけで人生や価値観が変わるようなことは往々にしてあることだし、だからこそなにかきっかけを得るために奔走するべきだ。
 
とかありますよね。
 
①側の人は②側の人のアクティブさを揶揄したりコスパの悪さを馬鹿にすることもあります。
 
②側の人は①側の人の考え方をひねくれていると評価したりだとか「そちらこそそんなきっかけも無いような人生しか送ってこなかったのか」と侮蔑することもあります。
 
①も②もそれぞれある程度納得のいく考え方だと思います。
 
①はいい意味でも悪い意味でも頑固
②はいい意味でも悪い意味でも柔軟
 
と言えるかもしれません。
 
しかしどちらも行き過ぎは良くないと思うのです。
 
頑固過ぎて全く外部からの刺激を受けないようなものでも良くないし、柔軟過ぎて外部からの刺激をそのまま受容するのも良くないと思います。
 
ここから完全に僕個人の意見なのですが、
 
この「行き過ぎ」というのはつまり「思考停止」なのではないかなぁと思うのです。
 
頑固すぎる人はただ1つの価値観を持ってさえいれば他の考えを排除できる…思考停止。
 
柔軟すぎる人は何も考えなくともただ与えられた価値観にすがっていればいい…思考停止。
 
思考の停止はとても楽です。でも考えることを放棄した人は何も生み出すことはできないし何も人に与えられないと思うのです。
 
それだけの話でした。
 

地下鉄

 JR筑肥線福岡空港方面に乗り進んで往く。

 
 すると姪浜駅を過ぎたところで、姪浜ドライビングスクールを横目に「JR筑肥線」は「福岡市営地下鉄空港線」に変化する。

 私はこの変化の瞬間が苦手だ。列車は轟轟とした音を鳴らしながら暗闇に吸い込まれ、やがて地下の灯りに照らされる。私にはこの瞬間によってなにか日常から非日常に、言い換えれば異世界にさらされるような気分になる。
 
 乗り物によって異世界に引き込まれるという発想は、おそらく人間社会に根強いものである。一例としてタイムマシンがある。タイムマシンという発明品の発想は世紀が21世紀に変わる前から存在するものであり、例えば漫画「ドラえもん」では板のような床に機器が付いた乗り物をタイムマシンとして登場させている。(ところで、あのタイムマシンは何故あれほど不安定な設計なのだろうか?あの枠も何も無い三畳ほどの床から落ちただけで時空の淵を彷徨うというリスクをそのままにタイムマシンとして使用するというのは、あまりに危険ではなかろうか。ただ、それがそのような形態であるという事実は数々の物語を生み出してきたし、漫画の中の話だろうと言われると反論の余地も無い。)
 
 また、川端康成の「雪国」におけるこれもまたあまりに有名な一節、『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』。こちらも乗り物が異世界(とも呼ばれうる場所)へと引き込む一例といっていいかもしれない。
 
 閑話休題。そもそもは地下鉄の話である。
 
 だがしかし、地下鉄に非日常性を覚えるからどうという訳でもなく、ただただそういう気分になるというだけの話である。もしかすると暗闇がどうとか轟轟とした音がどうとか、ということではなく、JR筑肥線沿線に住んでいたからこそ、そこに日常性を見出しただけなのかもしれない。この春から市営地下鉄沿線に居を構える(と言っても下宿するだけなのだが)身として、次は地下鉄に対してどんなイメージを自分は持つことになるのだろうか。そういった意味でも新生活への期待は高まるばかりである。
 
まとまりのない文章である。