私はこの変化の瞬間が苦手だ。列車は轟轟とした音を鳴らしながら暗闇に吸い込まれ、やがて地下の灯りに照らされる。私にはこの瞬間によってなにか日常から非日常に、言い換えれば異世界にさらされるような気分になる。
乗り物によって異世界に引き込まれるという発想は、おそらく人間社会に根強いものである。一例としてタイムマシンがある。タイムマシンという発明品の発想は世紀が21世紀に変わる前から存在するものであり、例えば漫画「ドラえもん」では板のような床に機器が付いた乗り物をタイムマシンとして登場させている。(ところで、あのタイムマシンは何故あれほど不安定な設計なのだろうか?あの枠も何も無い三畳ほどの床から落ちただけで時空の淵を彷徨うというリスクをそのままにタイムマシンとして使用するというのは、あまりに危険ではなかろうか。ただ、それがそのような形態であるという事実は数々の物語を生み出してきたし、漫画の中の話だろうと言われると反論の余地も無い。)
閑話休題。そもそもは地下鉄の話である。
だがしかし、地下鉄に非日常性を覚えるからどうという訳でもなく、ただただそういう気分になるというだけの話である。もしかすると暗闇がどうとか轟轟とした音がどうとか、ということではなく、JR筑肥線沿線に住んでいたからこそ、そこに日常性を見出しただけなのかもしれない。この春から市営地下鉄沿線に居を構える(と言っても下宿するだけなのだが)身として、次は地下鉄に対してどんなイメージを自分は持つことになるのだろうか。そういった意味でも新生活への期待は高まるばかりである。
まとまりのない文章である。