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ブログというか雑記

あんかけうどんのブログです

この星のうえで

チャリティーコンサートin福岡

4/22の土曜、福岡市立博多市民センターにて「東北・熊本震災チャリティーコンサートin福岡 2017」が行われます。

https://sites.google.com/site/charitytohokufukuoka/2017/abstract

このコンサートの第三ステージで歌われる「この星のうえで」(詩・谷川俊太郎 曲・松下耕)の、多くは詩についていくつか思うところがあったので、久しぶりに長文を書こうとブログを開きました。

曲集「この星のうえで」を知らない人は全く面白くないと思うので、そんな感じです。

また、この文に書いてあることはすべて僕の主観によるものなので、そんな感じです。

 

はる

一曲目「はる」。

曲集の中で最も短い曲。

はなをこえて しろいくもが

くもをこえて ふかいそらが

はなをこえ くもをこえ

そらをこえ 

わたしはいつまでものぼってゆける

ただただ美しい言葉ですが、注意したいのはこの「のぼってゆける」という表現。僕がこの詩を初めて読んだ時イメージしたのは、Nintendo64の「スーパーマリオ64」でマリオがピーチ城の天井の雲の絵を見た時に発生する、空を飛ぶボーナスステージのイベントでした。マリオがピーチ城の天井を見ると、画面が白い光に包まれ、イベントが発生します。

全く関係ない話をしましたが、ようするに「のぼってゆける」という表現はそのまま「のぼる」という行為のみでなく、「空を仰ぎ見て、空にのぼってゆけるような印象を受ける」という状態を指すとも受け取れるのではないか、ということです。そして

はるのひととき

わたしはかみさまと

しずかなはなしをした

「かみさまとしずかなはなしをした」という表現。これは、普段僕達が日常でするような「はなし」とは異なる「はなし」なのでは、と考えています。

「はるのひととき」に詩の第1連・第2連のような体験をした「主体(もしくは筆者)」が、その美しい花・雲・空を仰ぎみて、その「はる」の光景を「かみさま」とわかりあう。これが、この詩の全貌だと僕は捉えています。ここで言う「かみさま」とは、白い髭面のおじいさんではなく、また緑色の顔をした異星人でもでもなく、なにかこの地球そのものを包む光のような、エネルギーのようなものだと僕は勝手に捉えています。そして、この「わかりあう」という営みが「しずかなはなし」と喩えられているのでは、ということです。(「わかりあう」というのもきっちり当てはまる表現と言えないのですが、僕のボキャブラリーの中で一番意味が近い言葉なので使用しました。)

 

地球の客

二曲目、「地球の客」。

地球の客はわりと言葉がストレートな詩です。

地球という星に降り立ち我が物顔で跋扈するわたしたち人間の傲慢さや愚かさを描き、そしてどこか哀しみを帯びたこの詩は、「私たちの死後の朝」に向かって流れてゆきます。

 

おべんとうの歌

三曲目、「おべんとうの歌」。

曲集で最も長い曲。

魔法壜のお茶が

ちっともさめてないことに

何度でも感激するのだ

というフレーズで始まるこの詩(曲)は、楽しげなピアノとともに陽気なメロディが続きます。おべんとうを食べるという行為、その時間には小さな幸せがいくつも生まれます。魔法壜のお茶、梅ぼしおむすび、ゆで卵、キャラメルなど、そういった小さなものに幸せを感じると、空の青さに夢中になったり、小鳥のさえずりに声を潜めて耳をすまします。

そしてびっくりする

自分がどんなに小さなものに

幸せを感じているかを知って

そして少し腹を立てる

あんまり簡単に

幸せになった自分に

平和な時間が流れる中でおべんとうを食べるという行為には、いくつもの小さな幸せが含まれます。そしてあんまり簡単に幸せになった自分に「腹を立てる」ことになります。なぜなら、

ーあそこでは

そうあの廃坑になった町では

おべんとうのある子は

おべんとうを食べていた

そして

おべんとうのない子は

風の強い校庭で

黙ってぶらんこにのっていた

そういった内容の(何らかの雑誌か新聞の?)記事の写真を、詩の主体(もしくは筆者)ははっきりと記憶していたからでした。「どうすることもできぬくやしさが泉のように湧きあがる」という主体が、次に示す下の部分こそ、この詩の大きな主題だと僕は考えています。

どうやってわかちあうのか

幸せを

どうやってわかちあうのか

不幸を

前述のとおり、「廃坑になった町」では、

おべんとうのある子は
おべんとうを食べていた
そして
おべんとうのない子は
風の強い校庭で
黙ってぶらんこにのっていた

ここでは、「おべんとう」という小さな幸せが詰まったものは分かち合われず、幸せを持っているものは幸せを得、不幸を手にするものはそのままです。幸せを分かち合うことができない「どうすることもできないくやしさ」。だからこそ、「おべんとうの歌」なのだと思います。

そして

手の中の一個のおむすびは

地球のように

重い

 

ほほえみ

三曲目「ほほえみ」。

ほほえむことができる「ひと」と、ほほえむことができぬ青空・木・犬。前半の段では、ほほえむことができぬから青空は雲をうかべ、木は風にそよぎ、犬は尾をふり、感情の機微を表現します。そして後半の段ではほほえむことができる「ひと」が語られます。

ーだが人は

ほほえむことができるのに

時としてほほえみをわすれ

「ほほえみ」という表現手段を自在に操る「ひと」は、ほほえむことで必ずしも楽しい、嬉しい、といった感情を表現しません。

ほほえむことができるから

ほほえみで人をあざむく

「ほほえみ」の意味を考えさせられるような詩。

 

今年

五曲目、最後の曲は「今年」です。

涙があるだろう

今年も

涙ながらの歌があるだろう

上の言葉から始まるこの詩(曲)の中で、僕は一つだけ腑に落ちない箇所があります。それは、

短い旅に出るだろう

そして帰ってくるだろう 

農夫は野に

数学者は書斎に

普通に詩を読むと「農夫は野に」「数学者は書斎に」が「帰ってくるだろう」にかかることがすぐわかるのですが、曲の中では「帰ってくるだろう」と「農夫は野に」の間に明らかな空白(伴奏)があり、さらにこの部分から転調が始まることで言葉同士が隔離されているように聴こえる(もしくはそう歌ってしまう)ことです。この部分に関して何か一家言ある方は教えていただきたいのですが。

少しとんで

くだらぬことに喜ぶだろう

今年も

ささやかな幸せがあり

それは大きな不幸を

忘れさせることはできぬだろう

けれど娘は背が伸びるだろう

そして樹も

すこし上述の「おべんとうの歌」を思い出してしまうような詩ですが、こんな感じに、ひたすらに幸せ、ではなく、幸せはあるが、たしかに不幸もある、というような世界観が谷川俊太郎さんの世界観なのかもしれません。

地平は遠く果てないだろう

宇宙へと大きなロケットはのぼり

子等はかけてゆくだろう

単純に、この部分がこの「今年」という曲が曲集「この星のうえで」の終曲となっている理由ではないかなぁと思います。

「地平」「宇宙」は距離的な奥行、「子等」は「未来」を暗示して時間的な奥行をここに映し出します。

そして

今年も歓びがあるだろう

生きてゆくかぎり

いなむことのできぬ希望が

ここが「今年」 の締めであり曲集「この星のうえで」の締めとなります。「いなむことのできぬ希望」、否定することのできない希望が、わたしたちにはあるのです。今年も。この星のうえで。

 

この星のうえで

 「この星のうえで」というこの曲集、「この星」は、つまるところ「地球」のことです。この曲集に込められたものとして、「この星のうえで『生きるわたしたち人間』」という意味合いがとても強いように思えます。

そういった意味で、地震という自然(地球)の大いなる営みに対してそれでも強く生きる人々を支援するこの「東北・熊本震災チャリティーコンサートin福岡 2017」で歌うことに、僕は心を動かさずにはいられません。

4/22、博多市民センターで、お待ちしております。

https://sites.google.com/site/charitytohokufukuoka/2017/abstract

6/3九大フィル定演にて

九大フィルハーモニー・オーケストラさんの演奏会に行きました。

正直オーケストラにもクラシック音楽にもそんなに興味はないけれど、とりあえず同じ大学の音楽サークル(部活?)だし知り合いも結構いるのでまぁ聴きに行くかという感じで行きました。目標は演奏中に眠らないことでした。

いよいよ開演という感じでドヴォルザーク/序曲「謝肉祭」が始まりまして、よくわかんなかったけれどなんかすごくてもう カッケエ は?なにこれ ヤバい みたいな感じでもうあっという間に曲が終わって拍手。もう意味がわかりませんでした。

そこからもうあっと言う間の2時間でブラームス交響曲第二番ニ長調のクライマックス(と言っていいのか?)まで一気にもう「うおー!」「なんなんだー!」って感じのテンションでした。いや、カッコよすぎました。

ということで簡単に言うとめちゃくちゃ感動したんですけど、なんかこう、、、アクロスシンフォニーホールのすべてが楽器と化したような演奏で、なんか空間を奏でてる?みたいな?よくわかりませんけどそんな感じの感覚に襲われました。

曲を生き物としているような、、、そんでもって(正直素人中の素人なのでどの楽器がどの音を出していたかもよくわからないんですが、)各楽器のそれぞれが細胞みたいな感じでそれぞれの役割を全うしながら生き物としての曲の全身が感情を持って動くような、そんな演奏でした。

 

あ~~~~~すごかったです。

フィルの方々は本当にありがとうございました、そしてお疲れ様でした。冬の定演も必ず行く、そんな気分になるような素敵な演奏会でした。

 

追記というか感想付け足し

特にバイオリンを見てて思ったのですけれど、同じ楽器の奏者って同じ動きをするんですね。あのあたりのバイオリンが全く同じように動く一体感は音楽に確かな影響をもたらしているというか、耳じゃなくても、目でも音楽は感じられるのだな、と思いました。

地下鉄

 JR筑肥線福岡空港方面に乗り進んで往く。

 すると姪浜駅を過ぎたところで、姪浜ドライビングスクールを横目に「JR筑肥線」は「福岡市営地下鉄空港線」に変化する。

 私はこの変化の瞬間が苦手だ。列車は轟轟とした音を鳴らしながら暗闇に吸い込まれ、やがて地下の灯りに照らされる。私にはこの瞬間によってなにか日常から非日常に、言い換えれば異世界に曝されるような気分になる。

 乗り物によって異世界に引き込まれるという発想は人間社会に根強いものである。一例としてタイムマシンがある。タイムマシンという発明品の発想は世紀が現在に変わる前から存在するものであり、例えば漫画「ドラえもん」では板のような床に機器が付いた乗り物をタイムマシンとして登場させている。(ところで、あのタイムマシンは何故あれほど不安定なものなのだろうか?あの枠も何も無い三畳ほどの床から落ちただけで時空の淵を彷徨うというリスクをそのままにタイムマシンとして使用するというのは、あまりに危険ではなかろうか。それが数々の物語を生み出してきたし、所詮漫画の話だろうと言われると反論の余地も無いのだが、タイムマシンとしてあの形態を考えるに至った藤子F不二雄先生の遊び心たるや、である。)

 また、高名な(高名な、と形容するのもおこがましいが)小説家である川端康成氏の「雪国」におけるこれまたあまりに有名な一節、『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』。こちらも乗り物が異世界(とも呼ばれうる場所)へと引き込む一例といっていいかもしれない。

 閑話休題。そもそもは地下鉄の話である。

 だがしかし畢竟、地下鉄に非日常性を覚えるからどうという訳でもなく、ただただそういう気分になるというだけの話である。もしかすると暗闇がどうとか轟轟とした音がどうとか、ということではなく、JR筑肥線沿線に住んでいたからこそ、そこに日常性を見出しただけなのかもしれない。この春から市営地下鉄沿線に居を構える(と言っても下宿するだけなのだが)身として、次は地下鉄に対してどんなイメージを自分は持つことになるのだろうか。そういった意味でも新生活への期待は高まるばかりである。

毎回のごと、まとまりのない文章である。

木とともに人とともに

「木とともに 人とともに」の歌詩について。

 

以前「ここから始まる」の詩についてなにかしらのなにかを書きましたが、今回はそれの「木とともに 人とともに」版です。今回も合唱知らねーよとかそんな歌も詩も知らねーよという方にとっては幾分無為無聊の感を覚えることとは思います。回れ右、もアリです。

 

完全に僕個人の主観的で偏向的な解釈を与えた文章なので読むにしても適当に読み流してください。

 

それでは始めます。

参考:http://yyimage.web.fc2.com/hitotuno/subkitotomonipiano.htm

 

木とともに人とともに(作詩:谷川俊太郎 作曲:三善晃

木とともに私は歌う

大地から声を吸い上げ

言の葉を光にさらし

大空へ心なげうち

木とともにあなたとともに

私は歌う 緑なす森になるまで

 まずこの部分から。1番の前半部分といえるのではないでしょうか。言えなくても勝手に言いますが、まず「木とともに私は歌う」ですね。2番の初めが「人とともに私は歌う」となっていることからも1番の主題、まぁ主題とまでは言わずとも第一のキーワードは「木」であると言っていいでしょう。

 「大地から~心なげうち」までに関して、僕はこの部分は「木が歌う様子」をあらわしていると考えます。大地から声(養分)を吸い上げ、言の葉(葉)を光にさらし、・・・というようなことです。人も「歌う」ときには体の奥底から声を吸い上げて口から言の葉を外にさらし、自分の心をその空間に解き放ちますよね(多少強引ですがなんとなく感じ取ってください)。ただ、「大空へ心なげうち」の部分はよくわかりません。強引に解釈するとしても「心」=「果実」or「種子」を大空になげうち、子孫を残す…というようなことしか思いつきませんが。何かありましたら教えてください。

 「木とともにあなたとともに」ですが、ここでいう「あなた」は「木」だと思います。ここで「あなた(=木)」に語り掛けているということですね。「私は歌う 緑なす森になるまで」の部分に関して。木にとって「歌う」ということは大地から養分を吸い上げ、葉を光にさらし、大空へ種子をなげうつこと・・・つまり最終的には新しい木の芽生えを予感させるということです。つまりその「歌う」ことが幾重にも重なり、何度も何度も新しい木が芽吹き、「緑なす森」になる、というワケです。木々の歌声が幾重にも重なりハーモニーが生まれ、やがて緑なす森となる…木々の合唱というわけですね。

声よ湧け 私のうちに

花々の声 水の声

そよかぜの声 いのちの声

 ここは1番の後半部分ですね。「私のうちに」は2番の対応個所の「あなたのうちに」と呼応するものとして考えてあまり気にするところでもないと思います。「声よ湧け」もそのまんまですね。「花々の声 水の声 そよかぜの声」は簡単に受け取ると自然の様子を表しているだけのようですが、少し深く考えてみます。

 「いのちの声」は前半部分と絡めて考えてみると、新たな芽吹き=いのちの誕生の産声、といえるかもしれません。そこから考えると、種子は花々から生まれそよかぜに乗って運ばれ水を吸って芽吹く…「花々の声 水の声 そよかぜの声」はそうした「いのちの声」へとつながる声であるといえます。このことをよく踏まえたうえで2番の歌詞解釈へと移ります。

人とともに私は歌う

声あげぬ声をもとめて

つぶやきと叫びのはざま

せめぎあう笑いと涙

人とともにあなたとともに

私は歌う 歌声の星座めざして

 2番の前半部分です。1番の「木」に対して2番のテーマは「人」ですね。歌を歌っている「私」も「人」である以上、人と人との相互的な関係がここには表れています。

 「声あげぬ声をもとめて」は、声あげぬ/声をもとめて、と区分できることから「ぬ」は打消ではなく完了の意味を持つことがわかります。したがってそこまで深くは考えずに「(私は)声をあげる。(あなたの)声をもとめて」という意味になります。

 それと合わせてですが、「つぶやきと叫びのはざま」「せめぎあう笑いと涙」、これらの詩はすべて「歌」、とりわけ「合唱」に通じる詩になっているように思います。「歌」って、まさにつぶやきと叫びのはざまのような口頭表現であり、「歌詞」には対立する笑いも涙も乗せられますよね?さきほどの「(私は)声をあげる。(あなたの)声をもとめて」って、めちゃくちゃまさに合唱って感じしませんか?

 「人とともにあなたとともに」の「あなた」は1番と同様にその直前に出てきているもの、つまり「人」のことであり、「あなた(=人)」に語り掛けています。次に「私は歌う 歌声の星座めざして」の部分です。星座って、ひとつひとつの星の輝きがつながって星座を形作りますよね。ここでいう「歌声の星座」とは、ひとりひとりの歌声がつながって形作られた響き、ハーモニーのことなのではないでしょうか。そう考えると1番の「緑なす森になるまで」と似たものを感じますね。式に化してみると、「歌声の星座」=「人々の歌声によるハーモニー」であり「緑なす森」=「木々の歌声によるハーモニー」ということです。ちょっと腑に落ちた気分になりませんか?

声よ湧け あなたのうちに

思い出の声 明日の声

物語る声 初めての声

 2番の後半部分。1行目はもう1番の対応個所で説明しています。

 「思い出の声」は過去の声「明日の声」は未来の声「物語る声」は現在の声(もしくは今から過去を顧みる声)、とそれぞれ言い換えることができると思いますが、人が生きるなかで発す声ですね。では「初めての声」ってどんな声でしょうか。当然ながら、産声ですよね。では1番の対応個所の歌詞はどのような詩でしたでしょうか。そう、「いのちの声」≒いのちの誕生の声=産声(上記参照)ですよね。ここで1番と2番がぴったりつながるわけですね。

 

 で、ですよ。詩のうえではここでこの詩は終わりですが、合唱曲「木とともに人とともに」ではこれでラストではなく、ここに次の歌詩が続きフィナーレとなります。

声よ湧け 私のうちに あなたのうちに

いのちの声 初めての声

 何も言わずとも感じ取っていただきたい。1番と2番が絡み合ったこの終わりの歌詩。

 生命の誕生。いのちの声。初めての声。産声。

 まるで生きることとは歌うことなのだと言わんばかりのこの詩。

 

 この歌は「生きることとは歌うこと」というようなことに収束するように思います。

 いうなればいのちの讃歌。うまくいえませんが谷川さん超かっけえですよねイカしてますよねヤバいっすよね。ちなみに今この文章の偏差値は3くらいです。

 

 とりあえずここまで、ということで今回の歌詞の解釈は終わりです。

 

 調べてみると、どうやらこの詩は「上野の森コーラスパーク」という合唱祭のテーマ曲として平成11年に作られたもののようですね。そう考えてもう一度歌詞を見直してみると、なるほど、という感じですね。

 

 それでは。

 

 参考:Nコン2010 杉並学院高等学校「木とともに 人とともに」 - YouTube